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東京地方裁判所 平成2年(合わ)17号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中三〇日を右刑に算入する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、昭和四九年六月、Aと結婚し、当初はAの両親らとは別居していたが、昭和五二年ころ、Aの両親及び兄弟が出資し合って東京都江東区〈住所略〉に事務所兼居宅用の建物を建築するにあたり、被告人自身は姑との同居を嫌い難色を示したが、Aに強く勧められてこれに加わり、同建物二階部分に入居した。

被告人は、結婚以来、数回勤め先は変わったが、パートタイマーとして働き、Aは自動車運転手として働き、本件当時はタクシー運転手として稼働していた。

被告人は、昭和五八年ころから昭和六三年ころにかけて、密かに他の男性二名と肉体関係を伴う交際をし、また、昭和六二年ころからは、Aの承諾を得ず銀行から多額の借入れをするなどしていた。さらに平成元年九月ころからは、被告人が前に勤めていたそば屋の元店員Bと付き合うようになり、Aが夜勤で留守の間に子供の就寝後Bを呼び被告人方で肉体関係を持つという交際を続けていたが、同年一〇月末ころ、被告人方で同人と肉体関係を持った後二人で寝ているところを帰宅したAに発見された。このため、Aは被告人を責め、同年一一月末ころ、Bも含めて話合いの機会を持ち、被告人はBと今後会わない旨約束して謝罪し、Aは一旦はこれを受け入れた。しかし、心底では許せない気持の残っていたAは、その後も事あるごとに右浮気について被告人を責め、殴ったり、首を絞めたりの暴力のほか、被告人の裸体の写真を撮ったり、無理に性具を使用するなどの嫌がらせをするとともに、絶えず被告人の行動を監視するような態度を取るようになった。

被告人は、右のようなAの態度に耐えられなくなり、同年一二月ころには再三Aに離婚を申し出たが聞き入れられず、Bに電話をしても応じてくれず、八方塞がりに感じた被告人は、同月末ころから自殺をしたいと考えるようになり、平成二年一月三日ころ、自宅で首を吊る方法で自殺しようとしたが、子供が来たため中止した。その後被告人は同月九日ころBと会い、同人から別れるほかないと言われた後は、一層強く自殺を考えるようになったが、その方法につき思いめぐらすうち、被告人は、もし自分が一人で死ぬと子供が残るが、夫に子供は任せられない、いっそのこと子供を道連れにして死のう、そのためには子供が寝ている間に自宅に放火すれば一緒に焼け死ぬことができるし、元々自分がこのような立場に追い込まれたのも嫌いなこの家のせいだから、燃えてしまえばいいと考えるに至った。

(罪となるべき事実)

被告人は、前記のとおり、自宅を焼燬して、子供三名を焼死させた上、自殺しようと決意し、平成二年一月一六日午前零時一〇分ころ、前記所在の自宅二階居間兼寝室において、就寝中の長男C(当時一二歳)、二男D(当時一〇歳)及び長女E(当時五歳)の周囲の床などに灯油約三〇リットルを撒布した上、同室内に置かれていた炬燵の掛布団に所携のライターで点火して火を放ち、その火を同室の柱、鴨居などに燃え移らせ、よって、Fほか一二名が現に住居として使用している鉄骨造陸屋根五階建事務所兼居宅(建坪八七・五五平方メートル)の二階居間兼寝室(約一七平方メートル)及び同室の天井等の一部を焼燬したが、放火直後憐憫の情から右Cら三名の殺害を翻意し同人らを避難させたため、殺害の目的を遂げなかったものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示行為のうち、現住建造物等放火の点は刑法一〇八条に、各殺人未遂の点はいずれも同法二〇三条、一九九条にそれぞれ該当するところ、右は一個の行為で四個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の最も重い現住建造物等放火罪の刑で処断することとし、所定刑中有期懲役刑を選択し、なお犯情を考慮し、同法六六条、七一条、六八条三号を適用して酌量減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中三〇日を右刑に算入することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(弁護人の主張に対する判断)

一  心神耗弱について

弁護人は、被告人が、夫から男性関係について責められ、精神的に追い詰められた結果、本件犯行当時、抑うつ状態にあったため、事理弁別能力及びそれに従って行動する能力が著しく減退しており、心神耗弱の状態にあった旨主張するので、この点について判断する。

被告人の本件犯行当時の精神状態について、捜査段階で被告人を簡易精神鑑定した医師徳井達司は、同人作成の精神衛生診断書において、「被告人は、犯行当時、意志、思考の抑止、抑うつ気分の各症状は顕著とは言えないが、食欲不振、体重減少、日内変動、希死念慮、自殺企図等があったことを勘案すると、抑うつ状態にあった」と診断し、また、当公判廷においてこれを補足説明し、「被告人は、犯行当時、抑うつ反応の状態にあったが、全般的に程度がそれほど重くなく、通常の認識や感情が働いていることからして、圧倒的に病的に支配、規定される行動になっていないという意味で、弁識能力や行為能力について著しい障害があったとはみなせない。すなわち、問診の結果等によると、被告人は本件犯行の前日通常どおり勤務し、勤務中は活発に動いていて精神的に抑うつ感を感じておらず、家でもテレビ等興味関心というものに対する抑うつ状態が顕著ではなく、面白いことがあれば笑えるほど、抑うつ状態が常時全精神、全生活を圧倒的に支配していると言えず、不安感や焦燥感も持続して生活を支配するに至っていない。また、犯行前後の被告人の行動をみても正常な理性や感情が働いている」旨の判断を示しているところ、右徳井医師は、これまでに多数の簡易精神鑑定をしたほか、正式の精神鑑定の経験も多く、右診断書の作成に際しては、一件記録を検討した上、通常の方法により被告人の問診をし、精神診断を行っており、被告人も当公判廷で問診に際しては記憶のとおり話した旨供述している。さらに、同医師は当公判廷における証言に際しては、簡易精神鑑定後に作成された被告人の供述調書をあらかじめ読んだ上で右診断を維持しているのであって、同人の右診断には何らその信用性を疑わせる事情は認められない。

そして、本件犯行の動機原因は判示のとおりであり、十分了解可能なものである。また、被告人は本件犯行前、風邪を引き体調がすぐれず、一月一二日と一三日に医師から風邪の治療を受けているが、その際他に精神的、肉体的に特別の障害、変化等が認められておらず、一月に入ってからもパートタイマーとして仕事をし、長女の保育園の送迎をするなど通常の生活行動を取っていること、犯行に際しては、犯行を決意した後も気を大きくするためその直前に飲酒するなど犯行を逡巡していることを窺わせる行動が見られること、灯油を撒くにあたっても、物音で子供が目を覚まさないように灯油をポリタンクから持ち運びやすい洗面器に移し何回かに分けて撒き、寝ている子供の体にかからないようにその周辺だけに撒いたりしていること、点火に際しても、新聞紙につけた火が消えた後は炬燵の掛布団の灯油の染みた部分に再度火をつけていること、犯行直後には、燃え上がった炎を見て子供達を殺しては可哀相だと考え殺人の犯行を中止し、直ちに子供三名を外へ避難させ本件建物三階のFらに知らせた上、消火活動をするなど適切な行動を取っていることが認められ、犯行の前後を通じての被告人の行動は状況に応じた合理的なものであったと評価できるとともに、その過程に特段異常さを窺わせるような事情は認められない。

さらに、被告人の犯行状況についての供述は、捜査及び公判の各段階を通じてほぼ一貫しており、具体的かつ詳細であって、犯行状況について、被告人は十分な記憶を有しているものと認められる。

前記徳井医師の診断内容と以上の事情を総合すれば、被告人は本件犯行当時、是非善悪を弁識しこれに従って行動する能力が著しく減退した状態になかったものと認められるから、弁護人の右主張は採用できない。

二  自首について

次に、弁護人は、被告人には本件犯行につき自首が成立する旨主張するので、この点について判断する。

検察官作成の捜査報告書によれば、被告人を現行犯逮捕した水町朝雄警視は、逮捕した際の状況について、「当日、制服を着用して駆けつけた自分の横を被告人が通り過ぎて立ち去ろうとしたので、呼び止め、建物の中に人がいるかどうかやりとりした後、被告人に『どうして火事になったの。ストーブでも倒したのか』と尋ねたが答えがなく、被告人の顔がすすで真黒になっていたことと手に灯油がついていたことに加え、右質問に答えない態度に不審を感じて、『あんたが火をつけたのか』と聞いてみたが返事をしなかったので、更に何回か質問を繰り返した結果、被告人が漸く『私が火をつけました』と言った」旨検察官に供述していることが認められるところ、右供述は極めて具体的であり、事の経過としても自然であって、何ら信用性を疑わせる事情がなく、信用に値すると言うことができる。

他方、被告人は、当公判廷において、「警察官から『どうして火事になったのか』と聞かれたときに、『私が火をつけました』と言った」旨供述するが、水町警視の右供述に照らして信用することができない。

また、弁護人の指摘する水町朝雄警視ほか一名作成の現行犯人逮捕手続書には、「本件現場に駆けつけ、顔と両手をすすで真黒にした被告人に対し『どうして火災になりましたか』と職務質問したところ、被告人は『子供を道連れに死のうと思い灯油を撒きライターで火をつけ放火した』旨供述した」との記載があるが、右現行犯人逮捕手続書はその内容自体からも明らかなように、逮捕時の状況を概括的に記載したに過ぎず、水町警視と被告人との問答の様子を具体的に述べたものではないから、これをもって被告人の自首の根拠とみるのは相当でない。

そして水町警視の供述によって認められる事実関係の下においては、被告人が捜査機関に対し自発的に犯罪事実を申告したものとは認められないから、被告人には自首が成立せず、弁護人の右主張は採用できない。

三  中止未遂について

さらに、弁護人は、判示各殺人未遂については、中止未遂が成立する旨主張し、検察官においてもこの点は争わないところであるが、進んで中止未遂の減軽の可否について検討するのに、観念的競合の関係にある数個の犯罪のうちの一部の犯罪に中止未遂が成立する場合には、最初にその罪について法律上の減軽をするのではなく、その前に、刑法五四条一項前段、一〇条を適用して、中止未遂の成立する罪とその他の罪の各本条の法定刑をいわゆる重点的対照主義の見地から比較対照して最も重い刑を定め一罪として処断するのであって、仮にその中止未遂の成立する罪の法定刑を最も重いとするときは、その刑につき刑種を選択した上、中止未遂の減軽をすることができるが、中止未遂の成立しない罪の法定刑を最も重いとするときは、その罪の刑で一罪として処断する結果、もはやこれに中止未遂の減軽をすることができず、中止未遂の点は量刑上考慮するほかないと言うべきところ、本件においては前示のとおり成立する四個の罪のうち現住建造物等放火の罪の刑が最も重く、同罪に中止未遂の成立しないことは明らかであるから、中止未遂の減軽をすることはできないと言わなければならない。

よって、弁護人の主張は理由がなく採用することができない。

(量刑の理由)

本件は、判示の経過から被告人が子供三名と無理心中をしようとして自宅に放火した現住建造物等放火及び殺人未遂の事案であるところ、右は被告人自らの浮気に端を発したものであり、しかも被告人は自己の軽率な行為が夫に与えた苦しみを理解しその心底を思いやることなく、夫から一方的に難詰され嫌がらせを受けたと被害者的に考え、夫及び子供達との家庭生活を再建するための真摯な努力をせず、他の打開策を求めるなど全くしないまま、安易に三名もの罪もない子供達の生命を奪おうとし、かつ、多数人を巻き添えにする放火に及んだものであり、極めて短絡的かつ自己中心的な犯行であると言わざるを得ない。また、その態様をみても、深夜、身体障害者である被告人の義兄及び高齢の義父母を含む多数の者が現住し住宅密集地に所在する本件建物において、就寝中の子供達の周囲に灯油を撒いて点火しており、子供三名を死亡させる危険が極めて高かった上、生じさせた公共の危険も大である。加えて、本件建物及び家財等に与えた財産的被害も多額であることを考慮すれば、被告人の刑責は重いものと言わなければならない。

もっとも、被告人の浮気が夫に発覚した後被告人が本件犯行に至る過程においては夫の側にも対応に適切さを欠く面があったことは否めず、被告人は精神的に追い詰められて、犯行当時抑うつ状態になったことなど、その原因には同情の余地がないわけではないこと、被告人が放火直後殺害を翻意して犯行を中止し子供達を避難させたため本件殺人はいずれも未遂にとどまり、また、建物内の他の家族に通報した上、積極的に消火活動を行うなどしていること、結果として焼燬は被告人家族の居住部分だけにとどまったこと、被告人には前科前歴がなく、当公判廷でも反省の態度を示しており、被告人の母及び姉が監督を誓っていることなど被告人に有利な事情も存在するが、本件は執行猶予相当の事案とは認め難く、以上被告人に有利、不利一切の事情を総合考慮し、酌量減軽の上、主文掲記の刑に処するのが相当であると判断した次第である。

よって、主文のとおり判決する。

(求刑 懲役五年)

(裁判長裁判官 高橋省吾 裁判官 伊藤 納 裁判官 堀田眞哉)

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